平泉寺衆徒に攻められた淡河時治は、二十余人の郎党では防ぎようがなく、二人の男子を鎧唐櫃に入れ、乳母二人に前後を担がせ鎌倉河の淵に沈め、母もまた唐櫃の緒に取り付いて身を投げ、時治もまた自害して果て、ここに淡河一族は滅亡した。鎌倉河の淵とは赤根川と日詰川の合流地点より約200メートル下流にある倉淵を指す。